チャンスはここに



Covid-19によるパンデミック、通称〝コロナ禍〟が始まって1年半ほどになる。そして今現在もなお、まだまだ治る気配はないようだ。

医者でも専門家でもないが、わたしの見立てでは、おそらくこれは10年単位で影響が続くのではと思っている。何となくそんな気がする。もちろん早く治ってくれればそれに越したことはない。でも、早く早くと願うことは、同時に焦る気持ちも育ててしまう。

だから、こういった先が見通せない時ほど、思いきりどーんとスイッチを切り替えた方が、気持ち穏やかに軽やかに過ごすことができる。

今回のコロナ禍によって、様々な問題が浮き彫りになったわけだが、それはひとえに「今までが通用しない」ことによるものだろう。今、問題とされている事柄は今までもすでにあった。ただ、それでも何とかなってきた。しかし、今はもうそれが通用しなくなった。多分そういうことなんだと思う。

そして、その視点から見ると、そもそも問題を作ったのはコロナではなく、コロナはただのきっかけに過ぎないということになる。ここがとても大切なポイントで、この捉え方によって、これからの明暗が分かれると言ってもいい。

しばらく前に、世の中では何が起きてるのかなと思い、ネットでニュースの特集やドキュメンタリーを色々とリサーチした。主に飲食業界やそれに関連する業種が多かったけれど、やはりそこでもくっきりと明と暗に分かれていた。

当然、どの店や会社も生き残りを賭けて、できる限りの試行錯誤をしているのだが、その中でうまくいっている所とそうでない所には1つだけハッキリとした違いがあった。それは、意識の向け方。

「コロナがあっても」なのか、「コロナさえなければ」なのか。

店主やスタッフがインタビューを受けながらほとんど必ずこの言葉が出てくるのだが、その後に続くセリフを想像してみると、とてもわかりやすいと思う。前者はたとえ状況がどうであれ、「自分のやるべきこと」に意識が向いているし、後者は思いっきり、「コロナ=問題」に意識が向いている。

「チャンスの神さまに後ろ髪はない」という言葉があるが、わたしは「チャンスの神さまは道端に落ちている石ころのようなもの」と言いたい。これぞ、ロックの神さま。ロックンロールだぜ。

目の前の道がチャンスだらけのゴッドロードになるのか、あるいはマッドマックスよろしく、怒りのデスロードになるのか。

つまり、その石ころがチャンスなのか、障害(問題)なのか。自分の意識1つ、捉え方1つで、目の前に広がる現実は全く違ってくる。

どんな状況であっても選択肢はいつでもあって、それは自分で選ぶことができるということ。そしてそのチャンスは、現実をよーく見ることで立ち現れる。目の前に落ちている石をよーく見る。すると、自ずとその使い方なり、かわし方なりがわかってくる。

1つだけと言いつつ、もう1つあった。
前者と後者の違いは、やはり「好きのピュア度」だと思う。ラーメン屋でも巫女でもエンジニアでも、自分がやっていることがとにかく好きがどうか。

たとえ誰に褒められなくても、何なら誰かに嫌われたとしても、それをやっていると心から楽しいと思えるかどうか。むしろ楽しくさえなくても、どうしてもやってしまう何かがあるのかどうか。そこでピュア度が決まる。

もし、他人の評価で左右されるのなら、その好きには「正しさ」や「人の目」という不純物が混ざっている可能性が高い。そして当然ながら、「好き」と「正しさ」は全然違う。猫と杓子くらい違う。

そんなわけで、ピンチはチャンスとはよく言ったもので、やはりこの〝コロナ禍〟は色んな気づきをもたらしてくれたようだ。チャンスは今目の前に、ここそこにいくらでも落ちている。昼下がりの猫のように落ちている。後はそれを自分のアンテナがキャッチするかどうかだけ。

しかも、どうやら。下を向いてる時ほどチャンスに気づくチャンスがあるらしい。



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