本当の望み


年が明けて2022年。
あけましておめでとうございます。

正直に言おう。わたしはこの年末年始の”わっしょい感”があまり好きではない。ただ、日を跨ぐ、年が変わると言うだけで、何がどうしたというのか。365日毎日太陽は昇って沈んでいるし、昨日のわたしと今日のわたしは、生まれた時と現在ほどの違いはない。

そして、わたしにとって「新年の目標」なるものは、しめ縄や門松や一夏の恋のように、概ね正月ムードと共にフェードアウトしていくものという認識だ。浮かれた空気感の中でこそ、大切なのは平常心ではないのか。

やはり計画や目標を立てる時は、まずは酔いを覚ましてから、というのがエレガントかつ、スマートな大人の態度というもの。

しかし、そんなわたしの生まれながらの天の邪鬼っぷりが最も発揮されるのも、やはり正月ならではなのかもしれない。やはり正月には無視できない何かがあるようだ。正月マジック、あなどれない。

ちなみにわたしは生まれた時、へその緒が首にぐるりと巻きついた逆子の状態で出て来て、全身真っ青でギリギリまで呼吸をしていなかったそうだ。アバターのナヴィを彷彿とさせる生誕ではあるが、地球ではドクターの往復ビンタから始まったわたしの人生。めでたいのか、そうではないのか、いまだによくわからない。

そんなわけで、今年もとにかく始まった。
ニューイヤー。ニューデイズ。ニューライフ。なんだかんだで、やっぱり「始まり」とか「新しいこと」って、なんだかドキドキしちゃうね!(いろんな意味で)

「新年の目標」が気の迷い、幻と化してしまいがちなのは、もう1つ理由がある。それは、目標のモチベーション自体が、「新年だから」という理由に他ならない。そんなトキメキも色気も身も蓋もないような、とってつけたようなモチベーションでは、恋だって何だって長続きなどしないだろう。

大切なのはいつだって自分のハート。暦や計画が役立つツールとなるのも、ハートのトキメキがあってこそ。何事もまずは、自分の「望み」を知ることから始まる。

そもそも自分は”本当は”、何が好きか?何を望んでいるのか?
望みを知ることは、すなわち自分を知ること。

至極当然のことのようだけど、目標を立て達成すること以前に、案外これが一番難しかったりする。自分のことは自分が一番よく知っているようで、実はよくわかっていない、というのはままあること。

わたしだって、自分がナヴィなのか地球人なのか、本当のところ未だによくわかっていない。(←しつこい)

何と言ってもトリッキーなのは、この”本当は”の部分。当然ながら、本当はという時、それ以外は本当ではないということ。それは、フェイク好きであり、フェイク望み、つまり幻。

「新年だから」という理由と同じように、自分のハートのトキメキ以外の何か、とってつけたような何かがモチベーションになっている場合、それは「自分の本当の望み」ではない。

そして、本当とそうではないものを見分ける方法はとてもシンプル。そこに”恐怖”があるかないか。

目標が達成できない場合や、望んだものが手に入らない時、往々にして「本当は〇〇を望んでいるけれど、怖いから△△を選ぶ」という風に、極々ナチュラルに望みと結果の間に”恐怖”がサンドイッチされていることが多い。「新年だから目標を立てる」のように、それはあまりにもナチュラル過ぎて、まさか望みそのものがフェイクだなんてことにも気づかない。

カラクリはいつもシンプル、かつトリッキー。
でも、大丈夫。カラクリさえわかっていれば、あとはなんくるない。正月マジックも酔いもすっかり覚めて、クールダウンした今こそチャンス到来。インスピレーションは大抵、ぽっかりした気分の時にやって来る。

何が言いたかったかというと、早い話が「好きに理由はいらない」ということ。意味とか意義とかそんな立派なものはさっさと門松と一緒に片付けて、無意味に理由なく、でも”なんか好き”なものを愛でたらいいじゃないってこと。

というわけで、わたくしも気持ち新たに、今年もよりいっそう心を込めて、気が向いた時にグダグダと無駄に無駄話をしていこうと思う。

みなさまにおかれましても、愛あふれる1年になりますように。

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