Don't think. Feel.


しあわせなの♡と言っている人がそうではなかったり、平和や平等を訴えている人が暴力的だったり、自信に満ち溢れた人が豆腐、あるいはエメンタールチーズメンタル(長いな)だったり。そういうことは、よくあること。

この世は「虚構」でできている。

って、『サピエンス全史』の著書、ユヴァル・ノア・ハラリも言っていた。

実際、本当にそうであれば、わざわざ言う必要もないし、声高な正義はいつだって別の正義と戦っている。自信なんて月のようなもので、満ちたり欠けたりするのがナチュラルというもの。

嘘と本音。映えとリアル。虚構と現実。
光と影の法則のように、昨今そのコントラストは、どんどん濃く強くなってきている感がある。 

最近よく見聞きする「自己肯定感」という言葉。フューチャーされるのも頷けるし、きっと、気になっている人は少なくないと思う。大丈夫、あなたは独りではない。むしろ、まともな人こそ気になるのだと思う。

だって、そもそもこの世は「虚構」で成り立ってるわけだから。過大であろうが過少であろうが、常にプラスマイナス、盛るか削るかの世界なわけで。

確かに昨今、あらゆるテクノロジーのおかげで不可能が可能になっていて、その進化はこれからもどんどん加速していく。そのこと自体は本当に素晴らしい恩恵だと思う。しかし一方で、何が嘘か本当か、”仮想か現実か”、よくわからなくなっているのもまた事実。

本当って何だろう? 自己肯定感って何だろう?

自己肯定感があるとか、高いとか。それはごくシンプルに言うと、「そんなこと考えてない状態」のことなんじゃないかと思う。まあ、なんてシンプル。

そんなシンプルなアンサーのグッドなサンプルはやはり、猫師匠。わたしの知る限りにおいて、ぐるっとその辺を見渡してみたところ、最も自己肯定感が高いであろう存在は、うちの猫師匠において他いない。いつでもどんな瞬間でも、師匠は自己を肯定している感しかない。

師匠はそもそも常日頃、何を考えてらっしゃるのか、ということについては、当然わたしなぞの理解の及ばぬところではある。こちとらまだまだ修行の身。しかし、時に思うところもある。「もしかして師匠、何も考えてないっぽい?」と。

”Don’t think. Feel.”
(考えるな。感じろ。)

というアレを、どうも地で行っている感がある。

ブルースリーのドラゴンシリーズの真の監督は、実は師匠だったという説は、おそらく真実に違いない。

何となく話が逸れてしまったような気もするが、すでに話が終わったような気もする。

つまり、ハッピーもピースもラブも、その集大成である「自己肯定感」も、考えれば考えるほど、意識すればするほど遠のいてしまう。肯定したいはずの自己を盛ったり削ったりしてしまう。

でも逆に、考えず、何かをしようともせず、ただ「自分を感じる」ほどに、自分そのもののエネルギーが上がっていくということ。まさにそれが、「自己肯定感」。

と師匠もブルースリーもおっしゃっている。そんな気がする。

『考える葦』である我々ニンゲンにとって、「ただある」ことはなかなかに難しい。もし、考えることをしなければ、我々は自然界の中で最弱の存在、ピョロンと生えたただの一本の葦であることを認めなければならない。

ならばここは、認めよう。
潔く、「最弱の存在」であることを認め受け入れよう。

最弱であっても、最悪であっても、そんなことはどうでもいい。そもそもただの「葦」なのだ。大した問題ではない。大切なのは、ただ「自分を感じること」。

一本の葦がやがて森や草原になるように、生まれたばかりの子猫がやがてブルースリーになるように。すべてはそこから始まる。そこからしか始まらない。

だからいつでも、”自己肯定感を高める”合言葉は。

”Don’t think. Feel.”
(考えるな。感じろ。)

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