ようこそ、フリーダム



ますますカオスっぷりを増しているニッポンのコロナ状況。
ウイルスも生き残りをかけて、次々と新たな戦略を繰り出しては進化し続けている。重症化してしまうと本当に大変そうだ。

しかし、その無能さ、戦略のなさ、進化のなさにかけては、ニッポンのガバナンスだって負けてはいない。初っ端から現在に至るまで、「いやまさか」「さすがにそれは」みたいな、言わば〝逆張り〟的なことを尽きることなく日々更新し続けている。しかも国をあげての対策が未だにほぼほぼ〝自粛のみ〟という、もはや、他の追随を許さないというより国民すら追随できない独走かつ、逆走っぷりである。

とはいえ、どの国も行きつ戻りつ油断できない状況ではあるようだ。
しかしそれにしても、である。ニッポンはどうも、逆走以外で先進しているとは思えない有り様である。もはや、どこへ向かっているのかわからない。誰か知っているなら教えて欲しい。

もしかすると、ニッポンはすでにオリパラならぬ、パラレルワールドへ移行しているのかもしれない。もしそうであれば、かの理論物理学者であるリサ・ランドール博士が提言するように、本当に5次元というものは存在し、そろそろ地球外生命体との重力波を用いた通信も始まるのかもしれない。

妄想によって宇宙が広がり、絶望によって希望が生まれる。
そんなことを思う今日この頃。

このように、状況や先が読めない時ほど視野を大きく持つ必要がある。視野が狭ければ狭いほど、目先のことに一喜一憂し、ただ状況に振り回されてしまうことになる。例えるなら、自ら〝洗濯機にIN〟しているような状態だ。洗濯機には服だけ入れたらよいのであって、なにも自分まるごと入ることはない。

視野を広げるにはまず、知ること。
人類の歴史はパンデミックとの戦いでもある。ウイルスや状況はその時々で違っても、パンデミック自体は初めてのことではない。歴史から学びつつ、現代の専門家の科学的なデータや資料などから様々な情報を得ることができる。

わたしは自分が信頼できる情報を参考にしながら、昨年パンデミックが始まってしばらく経った頃、最初の一連の波が落ち着くまでに、まずはだいたい2年くらいかかるだろうと予想した。そしてそれから、社会の流通やシステムなどが変化し適応していくのに、だいたい10年くらいかかるだろうと見積もった。

ただこれは、予想というよりほとんどただの「勘」であり、自分の中の心構えのようなものだ。当然ただの勘なので、外れることも折り込み済みだ。早く収束すればそれに越したことはない。

ただ、パンデミックも社会変革も、これだけ大きな規模のイベントが起きれば、然るべき時間がかかるだろうとは思ったので、結構早い段階で長期戦にシフトした。こうすることで、「のんびりモード」にスイッチが切り替わり、大抵のことは「なんくるないさー」で対処できるようになった。

よく「いつ収束するのか」「先が見えない」などと言った不安や疲弊の声がニュースになっているが、確かに「わからない」ということは我々人間にとって非常にストレスである。しかし、パンデミックがあってもなくても、実際のところ先のことは「わからない」のである。

こう言ってしまうと身も蓋もないが、「わからないことに対処するスキル」を身につけておくことは、この変則的な時代にはとても有効だと思う。
その1つとしてはまず、「わからない。で、今どうするのか?」ということを自分で決めるということだ。

おそらく、不安で疲弊している状態というのは、わからないことに捕まってしまっている状態なのだと思う。つまり、〝洗濯機IN〟状態である。洗濯機の中で回り続けていても、汚れは落ちるかもしれないが、その前に目が回り、なんならその水を飲んでしまう可能性だってある。それより何より、そんなグルングルンの状態では何も考えることはできない。

そんな時はとりあえず、思考の洗濯機から出ることだ。そして、わからないことをわからないと認めた上で、わかること、できることへと考えをシフトしていく。要は、自分では決められないことについて思い悩むのではなく、「自分で決めることができることを考える」ということ。

そうは言っても、〝とにかく家にいろ〟というこの状況ではできる事にも限りがある。永遠に家にいるだけで成立する存在は、家具か観葉植物くらいのものだろう。

だからとにかく、なんでもいいから今いる場所で「ひろげる」こと。視野を広げる、認知を広げる、世界を広げる、交友関係を広げる、行動範囲を広げる。広げることができることは、どんどん広げていく。

例えば、今まで読んだことのないジャンルの本を読んでみるとか、全く畑違いの人のポッドキャストを聴いてみるとか。音楽や映画なども然りで、そういったことは家にいながらにして今すぐにできる。

幸いにして現代はインターネットという素晴らしい文明の利器がある。正しく使えばこれらは全て可能である。行動範囲にしても、感染リスクと対策をしっかりと把握した上で、よりリスクが少ない場所を探して出かけることだってできる。

ただ、いずれにしても、「リスクゼロ」はあり得ない。何を選んだところで、あるいは何を選ばなかったところで、常に何かしらのリスクはある。本を読んだらつまらなかった、とか。それもある意味リスクだろう。

結局のところ、「わからない」ことが前提なので、当然「正解」もない。つまりは、「正解は自分で決める」ということになる。
わからない度が増している昨今は、一見ものすごく自由が制限されているようで、考えようによっては、とてつもなく自由度が増していると言える。

なかなかにハードだが、エキサイティングな時代でもある。どうせなら楽しみたい。

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