忘却の彼方にそっと大事に置いておいたこのブログ。
文字通り、思い出したように再び書いているわけだが、ついでに、これまで書いたものも誤字脱字などを確認しがてら読み返してみた。ついでに文体もちょっと変えてみた。実際は誤字脱字以前に、何を書いていた何のブログなのかすら忘れていたのが正直なところだ。
その時々で思いついたことをお散歩気分で書いているので、特にこれと言ったテーマがあるわけではない。ただ書くこと、それ自体がこのブログの主旨であるということを思い出した。毎回どこに辿り着くか、あるいはどこにも辿り着かないかは書いてからのお楽しみ、という楽しみがある。
このパンデミックという地球規模の大イベントを経験し、1年が経った。世界は一変したが、わたし個人は今も昔も日々思うことは大して変わってはいないということもわかった。
これは「まるで成長がない」ということかもしれないし、「流行などに惑わされず普遍的な自己を探求している」ということかもしれない。どちらかということではない。どちらでもあり、どちらでもない。アリストテレスは超過と不足の中間に存在するメソテース、すなわち「中庸」を徳と呼んだ。そう。これはわたしなりの「徳」の実践なのだ。
つまり、ブログは気まぐれで、生活は全く相変わらずだということだ。
もう1つ気づいたことは、1つ1つの投稿で書いている事柄がパンデミックやなんやかんやを経て1年経った今、さらに加速度的に浮き彫りになっているということ。時の流れとともに収束し、流れ去っていくというよりむしろ、より「極まっている感」があるように感じる今日この頃。
そう。極まっている感。何かが極まで来ている感じ。
そこで、「極まる」という漢字を広辞苑で調べてみた。
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きわま・る【極まる・窮まる】キハマル
〔自五〕
(自然と際に至る意)
①ぎりぎりの限度に達する。極限の状態に至る。
②果てまで来る。終りとなる。つきる。
③(「谷まる」とも書く)動きのとれない状態に陥る。行き詰まって苦しむ。窮する。
④そういう結論に到達する。決定する。きまる。
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日常的によく見聞きするのは、「職人技を極める」とか「感極まって」のような、どちらかというと素敵な響きがあるものが多い気がするが、広辞苑によると〝極限の状態〟とか〝つきる〟とか〝行き詰まって苦しむ〟だとか。要は「詰んだ」感満載の言葉であるらしい。まあ、どちらの意味もあるのだろう。
そんなわけで、何か極まってる感漂う昨今は、この「極」という文字が登場する場面が以前に増して増えてきたように思う。「北極」然り、「極右」とか「極左」とか「極刑」などもある。これらもまた往々にして、詰んだムードが漂っている。
ところで、「エコロジー(ecology)」という言葉がある。これもまた見かけない日はない、というほど世界は「エコ」で溢れている。本来の意味は生態学や生態系を指す言葉だが、現代では主にそれら自然環境を保全、保護する文化的、社会的、経済的な思想や運動の意味で使われている。いわゆるSDGs。
そんなお馴染みのエコだが、この近代エコロジーの始まりは、実はあのナチスだったということは、知ってる人もいるかもしれないし、知らない人もいるかもしれない。
そもそもエコロジーとは、ゲルマン文化の伝統であった自然信仰から生まれた思想であり、その本質は「脱人間中心主義」である。
”すべての生命存在は人間と同等の価値を持つ。だから人間がその他の生命存在を侵害してはならない。”という観点から、人間あるいはその利益を中心には考えずに、むしろ自然ありきという立場から環境を保護しよう、という考え方が基本となっている。
それとナチスがなぜ?となるかもしれないが、ざっくり言うとナチスは「理想の環境の(自然が自然である)ためには、不要な人間は除去しよう。それが世界のためである。」という具合にこの自然信仰を〝完全におかしな解釈〟で採用し、それを極めてしまったのだ。
なんともはや。本末転倒どころの騒ぎではない。
このように、一見「善きこと」「正しいこと」のように思えることでも、その解釈や極め方によっては、そのまた対極に行ってしまう可能性もあるということだ。そうなると、まさに「詰み」の状態になってしまう。
やはり「極」というのは、〝極限の状態〟であり、〝果て〟であり、〝終わりとなる〟わけなので、極めることそれ自体よりも「どの方向に向かっているのか」ということが最大のポイントなのではないだろうか。
そして結局、「反対の反対は賛成なのだ」とバカボンのパパも言っているように、やはりどこまで行っても反対の反対は賛成なのではないかと思う。
そこでわたしとしては、色々と極まっている昨今だからこそ、その極である「極めない」というアティチュードをぜひ推奨したい。要は気まぐれ。気まぐれこそが現代のカウンターカルチャーである。着の身着のまま気まま猫ライフにこそ、生きるヒントがあると、猫師匠も常日頃おっしゃっている。
そんなわけで、なんだか詰んだような気持ちになった時はぜひ、家の猫師匠や近所の野良猫師匠などをよく観察し、お手本にするといいと思う。
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